« 第1回 決起前夜 | トップページ | 第3回 蘭印戦争終わる »

2010年9月11日 (土)

第2回 蘭印戦争始まる

そして運命の2月26日。

Photo

史実どおり「クーデターを鎮圧する」を選択すると…

Photo_2

一方「彼らの要求を聞く」と…

Photo_3

国民不満度の上昇幅を抑えたいのと、ソ連との関係が悪化して貿易協定を破棄されるのが嫌なので、鎮圧します。

この“国民不満度”ってやつが上昇すると、サボタージュによって生産効率が低下するし、輸送効率も落ちて補給が滞るようになるし、あげくの果てには暴動やクーデターが起きるし、ろくなことがありません。

2月26日:我々は2・26事件において “クーデターを鎮圧する” と選択した。

それと同時に…

Jpn0017

Jpn0018

開戦の大義名分は「インドネシアの独立支援」。1936(昭和11)年現在、フロレス島で囚われの身となっているスカルノハッタを救出し、彼らを中心に民族主義運動を組織して、インドネシアをオランダから独立させます。

226事件発生後に対蘭宣戦したのは、事件によって政策方針に若干の変更が生じるため、事件前と比較して宣戦布告による国民不満度の上昇が少なくてすむから。

つまり、ゲーム的には226が先で対蘭宣戦が後なんですが、架空戦記的には、対蘭戦に備えて軍の主力が南方にある隙を突いて、皇道派の過激分子が決起したものと考えてよいでしょう。しかしながら、叛乱に対する支持は広がらず、鎮圧されたということに…。

さて、対蘭宣戦前後の主要国との友好度を比較してみました。

米:+18 → +9
英:-19 → -26
仏:-14 → -24
ソ:-7 → -47

軒並み悪化は当然として、もっとも関係なさそうなソ連の-40ってどういうこと?

意外なことに、現時点では米国との関係は良好なんですね。

英国との関係は、国際連盟創設時の人種差別撤廃条項の問題やワシントンおよびロンドン軍縮会議でのゴタゴタを経て、かなり冷えこんでいます。どのみち3年後には戦争する予定なので、修復するつもりはありません。

あ、そうそう。この世界の日本は「真・大東亜戦争」にならって、国際連盟に正式加盟せずオブザーバー参加にとどめています。

いずれにせよ、日本の対蘭宣戦は世界各国にとっては寝耳に水、青天の霹靂だったことでしょう。で、報復措置かどうなのかは知りませんが…

2月27日:アメリカ合衆国が我が国との貿易協定を解消。
2月28日:オーストリアが我が国との貿易協定を解消。
2月28日:ボリビアが我が国との貿易協定を解消。

2月28日:第1騎兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第2騎兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第3騎兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第1軍司令部がメナドで上陸を完了。
2月28日:第10歩兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第11歩兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第12歩兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第13歩兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第15歩兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第16歩兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第18歩兵軍団がメナドで上陸を完了。
2月28日:第19歩兵軍団がメナドで上陸を完了。

宣戦布告と同時に開始したセレベス島メナド(マナド)上陸作戦、成功です。

とりあえずここメナドを拠点として蘭印攻略を進めるわけですが、熱帯雨林を踏破して占領地を拡大していくのは時間がかかり過ぎるので、海岸伝いに強襲上陸を繰り返していくこととなります。ボルネオ(カリマンタン)島内陸部のスミタウとマハカムを除いて。

Image

3月3日:我が軍の艦隊がマドゥラ海峡で敵艦隊と交戦。

Jpn0021

★日本軍
第二艦隊
司令長官:小沢治三郎大将
戦艦:「長門」「陸奥」「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」
軽巡洋艦:「名取」「鬼怒」「由良」「那珂」「夕張」「川内」

★蘭印軍
王立海軍
司令長官:フルストナー中将
軽巡洋艦:「ジャワ」
第四輸送隊

この戦力差。結果は火を見るよりも明らかでしょう。

Jpn0023

史実では、軽巡「ジャワ」は1942年2月27日のスラバヤ沖海戦で重巡洋艦「那智」の雷撃により撃沈されたそうな。

3月5日:第10歩兵軍団がパレンバンで上陸を完了。
3月5日:第15歩兵軍団がパレンバンで上陸を完了。

Jpn0403

Jpn0404

パレンバンは南シナ海に注ぐムシ川に沿って開けた町。町の郊外に油田精油所があるため、重要な攻略目標になりました。2000年現在の人口は140万人あまりで、ムシ川の対岸には今も大規模な精油施設があります。

史実では、日本軍は1942(昭和17)年2月14日に空挺作戦(パラシュート降下)でパレンバンを占領しました。パレンバンはムシ川の河口から約100キロの内陸に位置しており、上陸用舟艇で川を遡るなんてことをしていると、その間に貴重な油田設備を破壊されるおそれがあったため、空挺攻撃という手段が採用されたとのことです。

できればこの世界でも史実を踏襲したかったのですが、残念ながらこの(1936年)時点では空挺部隊が実戦配備できなかったので、やむなく正攻法というか強襲上陸になったわけです。ちなみに、大規模な空挺作戦としては1940年にドイツが西部戦線で行ったものが最初とされているので、それより4年も前じゃ…仕方ないよね。

3月5日。

Jpn0024

3月6日:アメリカ合衆国は戦時体制への移行において “戦争の準備をしよう” を選択したとのことです。

Jpn0026

Hoi2DataWikiより
「ヨーロッパの紛争にはできるだけ関与しないというモンロー主義を取っていた米国であったが、ヒトラーのポーランド侵攻開始後、中立法を修正し、武器・弾薬の禁輸を撤廃した」

…ということで…

徴兵軍にスライダーが1傾く
タカ派にスライダーが3傾く
シカゴ(620)にIC+3
平和時補正-25%
労働力+200

…といったことが起こります。「日本とオランダが交戦状態にある」というのが、このイベントの発生条件の一つ。

3月7日。

Jpn0027

Hoi2DataWikiより
「政敵を退け、ドイツに独裁体制を確立したヒトラーは、次に外交へと目を転じ、4つの大胆な賭けに出た(しかもその賭けは次第に危険度を増していった)。1つは1935年3月16日の、ヴェルサイユ条約に反する徴兵制度の復活である(同条約ではドイツ軍の兵力は100,000人を超えてはならないとされていた)。この違反に対してイギリスやフランスが公式の抗議以外に何もしないとわかると、その1年後(1936年3月7日)に、非武装化されたラインラントに軍を進駐させた。こうしてまたひとつ、ヴェルサイユ条約の条項が破られることになった」

3月7日:イギリスで “戦時体制への移行” が発生。
3月7日:フランスで “戦時体制への移行” が発生。

3月8日。

Hoi2DataWikiより
「1936年12月12日、蒋介石大元帥は、彼に反旗を翻した張学良将軍に拉致された。張将軍は蒋介石に対して、共産党を含めた抗日統一戦線の結成を求めた。数週間にわたって交渉が続けられ、蒋介石は数多くの要求を実行すると約束したが、共産党との全面的な同盟にだけは拒んだ。その後、張学良を拘束すると戦争が終わるまで幽閉した」

…というのが史実における「西安事件」の概要ですが、この世界では9ヶ月ばかり早く事件発生。で、蒋介石の対応は…

Jpn0030

その結果…

Jpn0031

…と、史実に近い形で一応決着。この「西安事件」を扱った生島治郎の冒険小説「総統奪取」はおすすめです。

|

« 第1回 決起前夜 | トップページ | 第3回 蘭印戦争終わる »

大日本国正史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/128575/35908821

この記事へのトラックバック一覧です: 第2回 蘭印戦争始まる:

« 第1回 決起前夜 | トップページ | 第3回 蘭印戦争終わる »