第8回 大戦勃発前夜
1939年1月1日。
1939年1月3日。
1939年1月6日。
1939年1月7日。
このあたりのイベント、Hoi2DataWikiにも説明がなくなっているので、詳細がよくわかりません。
1939年1月19日。
1939年1月20日、そのチベットから同盟提案。
心苦しいけど、お断り。
1939年1月25日。
無駄でしょうけど、がんばってくださいね。
1939年3月15日。
Hoi2DataWikiより
「ズデーテンラントを併合したヒトラーは、次にティソが率いる小さなスロヴァキア愛国組織を使い、半ば強制的にスロヴァキアの独立を宣言させた。これと時を同じくしてドイツ軍部隊がスロヴァキア人の“保護”を名目に国境を越えてチェコスロヴァキア領内への進駐を開始する。そして間髪を入れず、ヒトラーはチェコの大統領に向け、現在の“チェコ問題”について話し合うためにドイツへ来るように要請した。だが、その目的はチェコ大統領を孤立させて脅迫し、屈服させることであった。ヒトラーの策は成功した。数日後にはドイツ軍が旧チェコスロヴァキア全土を掌握した」
1939年3月15日:イギリスで “戦時体制への移行” が発生。
1939年3月15日:フランスで “戦時体制への移行” が発生。
Hoi2DataWikiより
「かつて独立国家だったスロヴァキアが事実上ドイツの属国となる。しかもイギリス、フランス、ソ連を含む25か国がこの国を承認した。スロヴァキア政府の新首相に就任したカトリック聖職者のヨゼフ・ティソはベルリンの厳重な監視のもと、ドイツの保守独裁主義政策に従った」
1939年3月24日。
Hoi2DataWikiより
「メーメルは元プロイセン公国領でありドイツ系の住民が大多数を占めていた。第一次世界大戦後は戦勝国フランスの統治領となっていたが、1923年リトアニア系の住民により制圧、のちリトアニア人による自治領となった。成立の経緯からメーメルは独自の自治政府を持つ特殊な領土となった。1938年メーメルにおいてナチ党が第一党となりドイツへの帰属を求める声が高まると。リトアニアは内圧と外圧に押され、メーメルをドイツに明け渡すこととなる」
Hoi2DataWikiより
「1939年3月22日、リトアニア政府は凄まじいドイツ系住民の圧力と攻撃準備を進めるドイツ軍の脅威に屈し、メーメル(現クライペダ)を割譲することでドイツと合意し、不可侵条約に署名した」
1939年3月26日。
Hoi2DataWikiより
「1939年3月25日、イタリアはアルバニアの首都ティラナに、イタリアによる占領を受け入れろという内容の最後通牒を突きつけた。さらにその裏ではアルバニアのゾグ国王がイタリアによるアルバニアの完全占領ならびに植民地化に反対しないよう、賄賂で買収しようとした。だが国王がこの提案を拒絶すると、ムッソリーニは1939年4月7日にアルバニアへの侵略を開始する。ドゥラスなど一部の地域でアルバニア軍による頑強な抵抗が見られたものの、アルバ二ア全土は瞬く間にイタリア軍の手に落ちた。イタリアの操り人形になることを嫌ったゾグ国王は、ゲラルディナ・アポニ王妃や幼いスカンガル王子とともにギリシャに逃れ、最終的にロンドンに亡命した。4月12日にアルバニア議会は同国のイタリアへの併合を可決し、イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世をアルバニアの新たな王とする。これに続いてイタリアはシェフクト・ヴェルラチを首班とするファシスト政権を擁立し、まもなくアルバニア全軍と外交団をイタリア軍および政府に吸収した」
1939年3月30日。
Hoi2DataWikiより
「リッベントロップはポーランドに対して、ダンツィヒの返還および、東プロイセンとドイツ本国との間にドイツ運営の道路および鉄道が敷設できるようポーランド回廊上の旧ドイツ領の返還を求めた。しかしこの時、ヒトラーは要求を完全に拒絶された。1939年3月31日に、イギリスとフランスがポーランドの国境線を保障したのである。この英仏からの独立保障で勢いを得たポーランドに妥協などするつもりはない。こうして1939年が進展するにつれ、ソヴィエト連邦の立場が重要になってきた。もしもスターリンがイギリスと同盟すれば、ドイツは二正面戦争を仕掛けられる危険性から、世界を巻き込むような大戦争を起こせなくなる。だがイギリスはソヴィエト連邦との同盟交渉にあまり乗り気ではなかった。それは政治的イデオロギーの違いだけでなく、もっと現実的な理由からであった。スターリンもまた、自らの欲望が満たされるわけでもない戦争に巻き込まれる気など毛頭なかった。そこでナチスドイツは、マンフレット・フォン・シュレーダーが言うところの“勇気”と“知恵”を振り絞り、イデオロギー上最大の敵としていたソヴィエト連邦との条約締結を成功させた」
1939年4月3日。
血迷った国民党軍が満州方面にちょっかい出すのを防ぎます。
1939年4月3日。
1939年5月18日。
お疲れさまでした。
1939年6月9日。
Hoi2DataWikiより
「1939年夏、世界の注目はヨーロッパで高まっている緊張に集まっていたため、ノモンハン村の周囲で起こった激しい国境紛争について知るものはほとんどいなかった。この紛争で日本軍はソ連軍と衝突したが、300両の戦車や装甲車両を投入した大反攻を受けて敗北した。この大反攻を指揮していたのは、後に対ドイツ戦で名を馳せるジューコフ将軍である」
…ということで、ここで引き下がれば…
恨みを晴らしたら…
さりげなく書かれていますが、今「ソ連と交戦」するのはよろしくないので、ここは我慢。
1939年 6月 9日 0:我々はノモンハン事変において “この戦いは我々の敗北だ” と選択した。
断腸の思いです。
1939年7月8日。
1939年8月3日。
対英戦への布石。友邦ドイツにケンカを売ったイギリスを討伐するという大義名分により、対英宣戦しても国民不満度が上昇しなくなります。
1939年8月24日。
Hoi2DataWikiより
「ドイツのポーランド侵攻はもはや時間の問題となっていた。しかしポーランドの後背にはソ連がいる。ソ連がポーランド侵攻に反対して連合国側に立てば、東西でフランスとソ連という2大国に直面することになるドイツの立場は途端に危ういものとなってしまうだろう。この状況を回避すべくドイツはソ連と数度の秘密会談を行い、遂に独ソ不可侵条約=モロトフ・リッベントロップ協定の締結に漕ぎつけた。これによりポーランドの命運は決まってしまった。また極東ではこの協定を受け平沼内閣が『欧州情勢は複雑怪奇』との珍声明を出して総辞職した」
Hoi2DataWikiより
「ヒトラーとスターリンは“モロトフ・リッベントロップ協定”と呼ばれる不可侵条約を締結した。この協定には秘密議定書がついており、ドイツとソ連がポーランドを征服した後の、両国の東欧における勢力圏が決められていた。ヒトラーはこの年の4月からすでにポーランド侵攻に向けた軍事計画とそれを正当化する口実を準備していたのだ。この議定書によれば、ソ連はラトヴィア、エストニア、フィンランドを勢力下におさめ、ドイツはリトアニアとダンツィヒの勢力圏とする。ポーランドは大きく3つの地域に分割される。ドイツと国境を接するヴァルテラント地方はドイツ帝国に直接併合され、非ドイツ系住民は東へと追放される。77,000平方マイルを超える面積の東部ポーランドは1300万人の住民とともにソ連の領土となる。残る中央部は、ドイツ政府当局が統治する“総督領”としてドイツの保護領となるのである」
1939年8月24日:イギリスで “戦時体制への移行” が発生。
1939年8月24日:フランスで “戦時体制への移行” が発生。
1939年8月29日。
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